歴史好きなあなたに「クイズ 徳川将軍」をお届けします。
260年余り続いた徳川幕府の歴代将軍について様々なエピソードを紹介しながら、将軍名を当てていただくクイズです。さあ、挑戦してください!

#1. 薩摩藩出身の正室「篤姫」が輿入れしましたが、篤姫も側室も子を授からず、世継ぎを設けることなく35歳で亡くなった将軍は誰?
正解は、第13代将軍・徳川家定です。
徳川家定は、脳性麻痺だったと思われる記録があり、また幼少期に罹った疱瘡のために顔に痣があったせいか人前に出たがりませんでした。父で12代将軍の徳川家慶が病で急逝して家定が将軍になると、父の側近だった阿部正弘や、その死後は堀田正睦が政務を行います。
病弱な徳川家定に、薩摩藩出身の健康で聡明な正室・篤姫が輿入れし、周囲は世継ぎを期待しましたが、篤姫も側室も子を授かりませんでした。このため、次期将軍候補に紀州藩主・徳川家茂と徳川慶喜が挙がり、それぞれを擁立する勢力が対立します。これに決着を付けたのは家定自身で、徳川家茂を後継者にすると宣言した翌月、35歳で亡くなりました。

#2. 先代が若くして亡くなり後継者がいなかったため、紀州藩から抜てきされて将軍になったのは誰でしょう?
正解は、第8代将軍・徳川吉宗です。
紀州藩(現在の和歌山県)藩主として手腕をふるっていた徳川吉宗が抜てきされました。
吉宗は大奥を縮小し、新田開発を進め、率先して質素倹約を実践し、財政再建に取り組みます。また「町火消し」と名付けた消防隊を組織し、目安箱を置いて人々の意見を政治に反映しました。
一方で、徳川吉宗の増税・倹約政策は経済や文化を停滞させた一面があり、また「享保の大飢饉」をはじめ、各地で火災、震災、疫病など、多くの死者を出した災害が相次ぎ、ドラマのような痛快人生とは言えなかったのです。

#3. 先代に実子がいなかったため13歳で将軍になったが、 江戸幕府と朝廷の開国/鎖国を巡る対立を緩和すべく、孝明天皇の妹「和宮」との縁談がまとまった将軍は誰?
正解は、第14代将軍・徳川家茂です。
家茂は、11代将軍・徳川家斉の孫で、13代将軍・徳川家定に実子がいなかったため13歳で将軍になります。
当時の日本は、諸外国から開国を要請されており、江戸幕府は開国、朝廷は鎖国の意向でした。この対立を緩和するために、徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の縁談がまとまります。
家茂と和宮の仲は良好でしたが、孝明天皇は和宮を降嫁させる条件として外国勢力の排除を求めており、徳川家茂に圧力をかけてきました。これに対して徳川家茂が将軍退位を申し出ると、孝明天皇は引き留めて諸外国との条約締結を許すなど、徳川家茂は朝廷との駆け引きを繰り広げましたが、急病のため21歳で急逝しました。

#4. 父の病死により、わずか10歳で将軍職に就きましたが、良き側近に支えられて「3大美事」と言われる善政をしいた将軍は誰?
正解は、第4代将軍・徳川家綱です。
家綱は、父・家光の病死により、わずか10歳で将軍職に就きましたが、父の異母弟であり叔父でもある保科正之をはじめ、良き側近に支えられました。
徳川家綱には「3大美事」と言われる善政があり、そのひとつが「末期養子禁止の緩和」です。これは跡取りのいない武家が、亡くなる直前に養子を取るのを許可した緩和策で、これにより武家の断絶と、その家臣が浪人になるのを防ぎました。
2つ目は、主君を亡くした武士の「殉死の禁止」を定めたこと。3つ目は、大名の妻子を人質として江戸に住まわせていた「大名証人制」の廃止でした。こうした徳川家綱の治政は、武力で制圧する「武断政治」から、法で統治する「文治政治」への変わり目になったのです。

#5. 先代の将軍が亡くなると幕閣を刷新して水野忠邦を起用し「天保の改革」を推進したのは誰でしょう?
正解は、第12代将軍・徳川家慶です。
徳川家慶は、父で11代将軍だった徳川家斉が亡くなると幕閣を刷新して水野忠邦を起用し「天保の改革」を行わせます。
贅沢や娯楽の制限、借金の無金利化、言論弾圧などで根本的な経済再建はできず、水野忠邦は失脚。次に家慶が登用した阿部正弘は、この頃、開国を求めて来航していた諸外国との外交や国防に腐心しました。
このように家慶は、見込んだ人材を次々に取り立てており、自身の後継者にもわが子ではなく、のちの15代将軍徳川慶喜を推薦しています。結局、次期将軍は徳川家慶の実子・徳川家定に決まりましたが、徳川家慶は人事能力のすぐれた将軍だったのです。

#6. 諸大名の築城や結婚を規制して、勢力を拡大できないように統制した法律「武家諸法度」を定めたのは、誰でしょう?
正解は、第2代将軍・徳川秀忠です。
秀忠は、父・徳川家康が開いた江戸幕府の支配体制をさらに強化しました。その罰則は厳しく、多くの大名が武家諸法度に違反したのを理由に、領地を減らされたり、没収されたりしました。

#7. 徳川吉宗は、病弱で言語障害があり酒色や遊芸にふけって文武を怠りがちだった長男を、長幼の序を重んじて後継者にしました。その将軍とは誰でしょう?
正解は、第9代将軍・徳川家重です。
徳川家重は、8代将軍・徳川吉宗の長男ですが、病弱で言語障害があり、また、酒色や遊芸にふけって文武を怠りがちでした。これで将軍職が務まるのかと親族や幕臣は危ぶみ、一時は異母弟・徳川宗武を次期将軍にする話が持ち上がっていました。
しかし、徳川吉宗は長幼の序を重んじて長男・徳川家重を後継者とし、家重は将軍になると、自身の不明瞭な発話を聞き取れた側近・大岡忠光や、経済政策に通じた幕臣・田沼意次に支えられて政務を行いました。こうした家重の治世は、障害を持つ人の社会参加を実現するノーマライゼーションの先例だったという評価もあります。

#8. 先代の時代に権勢を誇った老中の田沼意次を解任し、吉宗の孫に当たる松平定信を老中首座に据えて「寛政の改革」を行った将軍は誰でしょう?
正解は、第11代将軍・徳川家斉です。
徳川家斉は、10代将軍・徳川家治の子ではなく、徳川家の分家である一橋家の出身ですが、家治の嫡男が急逝したため後継者に選ばれました。先代の時代に権勢を誇った老中の田沼意次を解任し、吉宗の孫に当たる御三卿田安家出身の松平定信を老中首座に据えて「寛政の改革」を行いました。実務的な功績は松平定信によるが、家斉もまた改革の頂点に立つ指導者として果たした役割は大きい。

#9. 父の死により5歳で将軍になり、「利発で聞きわけが良い」と側近に期待されながら将軍就任の4年後、8歳で亡くなったのは誰でしょう?
正解は、第7代将軍・徳川家継です。
徳川家継は、6代将軍・徳川家宣の子で、父の死により5歳で7代将軍になりました。この幼い将軍を支えたのは、先代・徳川家宣の側近だった間部詮房や新井白石です。家継は間部詮房を父のように慕い、間部詮房が外出から帰ると喜んで抱き着いたと言われています。
また新井白石は、この頃、国内に流通していた金・銀の純度を抑えた貨幣を回収し、良質な小判に改めてインフレを沈静化したり、賄賂を受け取っていた幕臣を追放したりと改革に努めました。新井白石は、幼君・徳川家継を「利発で聞きわけが良い」と期待していたのですが、徳川家継は将軍就任の4年後、8歳で亡くなります。

#10. 治政にあたったのはたった3年間でしたが、「酒税の廃止」や「役人の賄賂の禁止」など人々に歓迎された高潔な将軍は誰でしょう?
正解は、第6代将軍・徳川家宣です。
徳川家宣は、3代将軍・徳川家光の三男の子で、43歳までは甲府藩の藩主を務めていました。5代将軍・徳川綱吉の嫡子が早世していたため、徳川家宣が後継者候補に浮上し、6代将軍になったのは46歳のときです。
家宣の治政はわずか3年間でしたが、生類憐みの令や酒税を廃止して人々に歓迎され、また、役人の賄賂を禁じた高潔な将軍でした。
病に倒れて死を覚悟したときには「天下のことに私心を持ち込んではならない」と、後継者には幼いわが子ではなく、尾張藩主を迎えることを側近に提案しています。この件は、側近らが幼少の嫡子を補佐すると約束して、家宣もこれを受け入れました。

#11. 兄に実子がいなかったため、将軍を継承し、悪法と言われる「生類憐みの令」を発布した将軍として有名なのは誰でしょう?
正解は、第5代将軍・徳川綱吉です。
徳川綱吉は、4代将軍・徳川家綱の弟で、兄の徳川家綱に実子がいなかったため、5代将軍に就任しました。
綱吉は、悪法と言われる「生類憐みの令」を発布した将軍として有名です。しかし、生類憐みの令は、孤児や病人、高齢者、そして生きもの全般を保護するように定めた福祉法でした。綱吉は儒教に基づいた、恵み深く、思いやりのある政治をしなければならないと考えていたのです。
ただ、生類憐みの令は、牛馬に重荷を運ばせるのを禁じたり、うなぎ料理を提供した店を罰したりと現実離れしており、人々を困らせもしました。このため、人間よりも犬を大事にした殿様とされ「犬公方」と呼ばれるようになってしまったのです。

#12. 体が弱く吃音でもあったため、生母のお江や一部の幕臣には、次期将軍には不適任だと思われていたが、乳母・春日局の直訴で将軍となったのは誰?
正解は、第3代将軍・徳川家光です。
徳川家光は、第2代将軍・徳川秀忠の嫡男でしたが、体が弱く、吃音でもあったため、生母のお江や一部の幕臣は、次期将軍には利発な弟・徳川忠長(松平忠長)の方が適任だと考えていました。このように弟ばかりが期待されて、孤独だった徳川家光を乳母の春日局は愛情深く育てます。春日局は、江戸幕府の開祖・徳川家康に直訴して、次期将軍は徳川家光であると宣言してもらい、後継者争いを収めました。
将軍になった徳川家光は「参勤交代」を制度化し、諸大名に費用負担を強いて反乱を抑え込みます。また、諸外国の侵攻から国を守るため、鎖国政策を強化するなど後々まで続く政策を実施したのです。
Results
おめでとうございます!
正解率が70%を超えましたので合格です。
残念!
正解率が70%以下でしたので不合格です。